昭和43年3月21日 夜の御理解       
                       末永静行


子供の時に良く聞かされた事ですけれども、おばあちゃんがいいよりました、しらごつばっかりいうと死んでから閻魔様から下をベロをぬがれるというて、しらごつをいうてはならん、しらごつばっかりいうと、死んでから閻魔様から下をベロをぬがる、ね、というてその、まあ、嘘をいうてはならないと言う事を、まあ、子供の時から教えられてまいりましたんですけれど、お道の信心をさせて頂いてから、本当に、あの、嘘をいうたら舌を抜くといったような神様ではなくて、お道の信心の、例えば嘘をいうても良いと言うことではない、けれども、確かに神様にいろいろと約束をしますよね、なかなかそれが出来ない、どうぞおかげを頂かせてください、その代わりここを改まりますからという訳である、ね。
で、おかげを受けても、それが実行できないような事がもうたくさんある、ね、そこで私は天地の親神様の愛情というか、天地の親神様のお心というのは、ね、もう、嘘を言わせてからという訳じゃないでしょうけれども、その中から本当な事が分かり、その中から本当なものが育って行くならば、神様の願いというのはそこんところのほうが本当な事のようにある、ね。
また神様に嘘をいうた、また神様に約束しておった事が実行できなかった、神様はそれをしめなさるのではなくて、そういう時にです、まあ、いうならお詫びの印にといったような修行が出来る、もう普通で出来ないような修行が出来る、普通ではとても出来ない信心が出来る、神様が求め給うのはその辺だと私は思う。そこに、あの、お道の信心でいう、私共が拝ませて頂いておる神様の本当の愛情というか、なるほど親神様じゃなといったようなものを感じます。
なかなか、それは難しい事でございますけれども、やはり、あの、おかげを頂きたい、お徳も受けたい、ね、信心も一つ本気で分からせて頂きたい、為にそこに神様にあーもします、こうもします、神様に喜んで頂くような、はぁー自分の心の中にこういう汚い心があったんでは神様が喜んでくださるまいからというて、もうこういう心は金輪際(こんりんざい)使わんぞと神様にお約束する、ところが、また次にはまたそれがでてきておる、もういうなら自分がもう本当に自己に対すると申しますかね、もう自分という者が嫌になってくる、ね、もう本当に自分というものはこう言うことですらもできない、自分はこう言う事すら、しかも神様にお約束をしておるのに実行できない自分がです、実に哀れに感じるような事がある、問題はそこんところをです、真剣に私は考えなければだめ。
そして、その代わりに、例えばこういう信心もさせてもらいます、こういうおかげも頂きますと、まあ、いうなら、今までさせて頂こうと思うて出来なかった信心がそこから出来てくる、そういう私は、あの、私共が、いわば、詫びれば許してやりたいのが親心じゃと仰る、そういう神様なんです、ね。
もういくら詫び立っちゃもう言う事を聞かん、お前はもう十ぺんもそげなんことをいうたけん、もうお前の下をぬといったような神様じゃないと言う事ですね。それでも神様はです、そこから祈っておってくださる。そこからお育てを下さろうとする願いを現してくださる、ね。
今日は若柳会が新たに発足という訳じゃないですけれども、どうも若柳会、奮わない、そこで、もういっぺん皆に呼びかけて、まあ、いうなら、やり直そうといったような事で今度皆さんよっておられます、ね、その、会合に先立ってからここでこれからの信心の焦点と、私共の焦点というものを、まあ、ヒントを頂きたいというのである、私は申しました、とにかくね、お互いが育てあおうという愛情が必要である、育てあおう愛情が必要である、ね、どのぐらいにその若柳会なら若柳会の会員の一人一人が愛情をもっておるかと言う事が問題である、本当に良い会に育てよう、そして自分達も育てられようという願いの元にです、その会が銘々の会員の愛情によっていよいよ本当なものに育って行かなければならない。
それで、私、豊美の例をとって申しました、今日は例えばそう言うふうにして集まってくる、丁度、九時ごろまで何か、でちょっとそこんところだけだしてきよる、歌があっておりました、もう古い人達の歌が、それにあの美空ひばりが出て昔の歌を歌ってました。なかなかあの人は美空ひばりファンでございますから、もう、時間がきたけれども、電話がかかってきよるけれども、もうすぐ行くもうすぐ行くというてそのひばりの終わるまで立てないのです、と言うことになると、ね、若柳会よりも美空ひばりの歌の方が強くと言うことになって来るでしょうが、ね、これじゃ本当な信心が育つはずがない、自分が好きなものでも、ね、絶ってからでも、ね。
これに、例えばあの、今、愛子なんか、もう、夜通しにここお広前で御祈念をしております、テレビもみあおりません、自分が頂きたいという信心のこれは愛情の現われなんです、ね、本当に自分の信心を育てたい、本当に分かりたいというところからそういう修行もあえても出来るわけでございます、ね、若柳会の銘々が不熱心だというじゃなくて、一人ひとりがです、その会を育てさせて頂こうという愛情、それには神様の前に証を立てなければならない、ね、なら、せっかく今日の会があっておるというのに自分の好きな歌があっておるからというてその歌に光れるようなことでは育つはずがないじゃないか、いわゆる、会に対する愛情がそれでは薄いといったような事を、まあ、とにかく育てよう愛情が大事だというふうにです、例えば分かっておりましても、ね、やはり好きなものは好きですから、そこに、また、ね、好きなテレビならテレビをみよる、ね、御祈念の時間を外すと言ったような事になるかもしれませんけれどもです、ね、そういう時にです、もう本当に金輪際、例えばそう言うことがありませんようにと誓いましてもです、ね、自分のその好きな歌をとうとう聞き終わってお広前にでてくると、やっぱり、こう気分が、神様に向かう心が鈍ってしまう、そういう時にですね、神様その印に今日はもう一巻お祓いを奏上させてもらいますから、今日は例えば三度の食事であるならば一度を抜かせて頂きますからといったようなですね、修行をちょっと心掛けさせて頂くと、そういう気持ちがでてまいりますとですね、なさったと例えばテレビを見て御無礼をしたというような嫌な心の中にある神様に向かう心がです、さぁー神様に向こうてくるです、そこから考えますとですね、神様はテレビを見せんというのではなくてです、その修行、次の修行を求めておられるといったような感じがする、ね、勿論それぞれのお互い信心に対するところの愛情がもういよいよ強うなってくりゃそんな事は全然問題じゃなくなってくるのですけれども、そこが人間、ね、神様に嘘になるような事がある、ね。
神様はですね、そこんところをお前はまた失敗したなというて目に飾っておこんなさるような神様でもなからなければ、またお前は嘘をいうた、もうお前は十ぺんもいうたから、もうお前の下をぬぐぞといったような神様ではないと言う事を私共は知らなければならない、けれども、神様の願いはそれによって育てられるところのもの、ね、それであって、育てられるところの信心、神様の願いその辺にあるように私は感じる。
これはもう私の体験をいう手も十八年間、なら十八年間お粗末ご無礼ばっかり続けてる、もう金輪際というておるけれどもまたご無礼をしておる、その代わりにその時にはやはり私の信心の修行の意欲というものがやはり燃えたと言う事です、おかげで、なら、やはり去年よりも今年、今年よりもまた来年はおかげを頂いて行くであろう、そういうおかげの兆しがね、いつもある、してみると、お粗末をした御無礼をした、ね、神様に対してまた嘘をいうたといったような事が責め道具ではなくてです、ね、そこんところで氏子の一人ひとりが本当な信心に自覚していくという、そう言う修行を求め給う、そこんところに神様の願いがあるというような感じがするんですね。 
         どうぞ。